平安時代で最も権力を誇った貴族といえば、まず藤原道長を思い浮かべますよね。平安中期の貴族で、娘の彰子を時の帝である一条天皇の中宮にし、次の天皇の外祖父となって権勢をほしいままにした人物です。
「望月の欠けたることもなしと思へば」
道長の権力を表わすにふさわしいのが「望月の歌」です。
この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
この世は私のためにあるようだ。望月(満月)に欠けたところがないように、私の権勢も完璧!(超訳)
この歌は道長の日記である『御堂関白記』には載っていないのですが、藤原実資の『小右記』には記録されています。おそらく道長はネタとして詠んだのでしょうが、それがきっちり記録されてしまっていたのはちょっとイタイですね。
さて、ネタでこんなことを言ってしまうほどに権力をほしいままにしていた道長ですが、力は持っていても体のほうは悪かった。実はこの歌を詠んだころにはほとんど眼が見えていなかったのでは?とも言われているのです。
この歌が詠まれたのが、1018(寛仁2)年10月16日。この日は娘の威子(いし/四女)が中宮宣旨を受けためでたい日で、道長の娘が3人も天皇の后になったという日。そりゃあ有頂天になってこんな歌を詠んでもしかたない。中宮宣旨の祝賀の場で詠まれた歌と言われています。
道長が亡くなるのはここから10年後の1028(万寿4)年12月4日。亡くなるまでに結構ながい年月がありますが、すでに病魔に侵されていたとは。病気は何だったのか。
死因は糖尿病
道長は長い間糖尿病に悩まされていたと言われています。貴族は毎晩のように宴会を開いては浴びるように酒を飲んでいたことと思われます。当時の酒といえば、糖分が多い濁り酒。澄んだ清酒が登場するのは戦国時代ごろですから、平安時代の人々はいわゆる「どぶろく」を飲んでいた。まずこのことから糖分過多だったことはわかります。
糖尿病らしい症状として、こんなものがありました。
- 背中に大きな腫物
- 口が渇く
- 眼が見えない
晩年の道長とよく面会していた藤原実資が『小右記』に記録していた症状です。特に最晩年ごろになると、道長はすぐ目の前にある実資の顔すらよく見えないのだと言っていたとか。
今ならブラック企業!平安時代の政治家・官僚は超ハード
なぜ糖尿病になったのか、実は食生活ではなく、生活スタイルに問題があったのではないかとも言われています。というのも、平安貴族の生活は実に不規則。ふつうの貴族程度ならまだいいのですが、トップ官僚の道長ともなると、現代のブラック企業も真っ青なスケジュールでした。
内裏に出仕する貴族たちの一日のスケジュールはだいたいこんな感じ。
夜も明けぬうちに起き(午前3時ごろ)、身支度を整えて吉凶を占い、日が昇るころに家を出て内裏へ。仕事はお昼前に終わり、あとは自由時間。勉強をしたり人と交流したり、宴会を楽しんだりする。
ただ、摂政関白太政大臣となった道長はこの通り規則正しく生活していたわけではありませんでした。毎日山のような書類とにらめっこし、会議をする。この会議は数時間では終わらず、夜通し行われることも。道長には会議のための資料を読み込む時間も必要で、連日内裏に宿直(とのい)することもしばしばでした。
平安貴族というと夜は恋人のもとへ通って夜通し逢瀬を楽しむという印象がありますが、道長にはそんなことをしている暇はなかったでしょうね。
実は、この不規則な生活スタイルこそ糖尿病の原因だったと言われています。糖尿病は現代人にも多い生活習慣病。平安時代の貴族はゆったりと生きているイメージがありますが、こういった病気は1000年以上前でも当たり前のように存在していたのですね。
ちなみに、若くして大出世した道長は、周りの公卿たちからやっかまれたり若輩者と馬鹿にされたりすることも多かったようです。道長は必死に「この地位にふさわしくあろう」と努力していました。そのストレスから頭痛がしたり過敏性大腸症候群になったりと、大変な日々を過ごしていたようです。
ストレス社会なのは平安時代も同じ。むしろ現代よりもっと酷かったのかもしれません。