平安時代の美男子については、以前の記事で『源氏物語』の光源氏を取り上げて紹介しました。
物語では残念ながら容貌に関する詳しい描写がなく、どんな顔だったのかははっきりしませんでした。
今回は、実在した平安時代の美男子たちを取り上げてみたいと思います。平安初期・中期・後期に分けて紹介します。
初期
在原業平
在原業平(ありわらのなりひら)といったら、色好みの美男子で『伊勢物語』の昔男のモデルとして知られる人物です。業平がモデルとされているだけなのですが、古くから昔男=業平と同一視されてきました。
業平は五位の中将だったので在五中将と呼ばれましたが、それにちなんで『伊勢物語』も『在五物語』と呼ばれたりもしました。
『伊勢物語』の「芥川」の段の二条の后(藤原高子/ふじわらのたかいこ)との悲恋、また伊勢の斎宮との禁忌の恋など、数えきれないほどの女性と浮名を流したといわれています。
また、『伊勢物語』の昔男のモデルであると同時に『源氏物語』の源氏のモデルのひとりであるともいわれていますね。業平は父方の祖父が平城天皇、母方の祖父が桓武天皇という大変高貴な生まれであるにも関わらず、平城天皇と薬子が起こした事件のせいで臣籍降下されることに。
やんごとない身分にもかかわらず臣下の身分にされるという点、プレイボーイであるという点で源氏と共通しているのです。
容姿については、『三大実録』が
業平、体貌閑麗、放縦不拘、 略無才学、善作倭歌
『三代実録』より
と伝えています。つまり、容姿端麗で放縦(自由奔放)な業平は学才はなく(漢学の知識がない)、和歌ばかり作っていたよ、ということ。
平安時代の人々は息をするように歌を詠んだわけですが、業平の時代はまだまだ唐の文化を学ぼう!という時代で、遣唐使も派遣されていた。「コイツは顔がいいだけで漢学もロクに学ばず、和歌を詠んで女の尻ばかり追いかけやがって……」とまあ、周囲からそんなふうに思われていたのだろうな、という人物です。
ただ、女性にモテるためにはやっぱり和歌が上手なほうがいい。六歌仙でもある業平の歌の才能はすばらしく、顔がいい上に言葉巧みに女性を口説くなんて、さぞかしモテたことでしょう。
僧正遍照
僧正遍照(そうじょうへんじょう/遍照法師とも)は、平安前期の僧・歌人です。出家する前の俗名を良岑宗貞(よしみねのむねさだ)といいます。業平と同じく六歌仙のひとりで、遍照が詠んだ有名な和歌は「小倉百人一首」にもとられているこの歌。
天つ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ
「小倉百人一首」より
五節の舞姫を見て詠んだ歌とされています。
業平ほど有名ではありませんが、実はこの遍照も桓武天皇の孫。高貴な血筋です。出家後の僧としての説話などが有名ですが、出家前は色好みとして名をはせていました。このあたりも業平に似ていますよね。
遍照の色好みについては、歌物語の『大和物語』などに書かれています。
深草の帝と申しける御時、良少将といふ人、いみじき時にてありける。いと色好みになむありける。
『大和物語』168段「苔の衣」(校注・訳:高橋正治『新編日本古典文学全集』/小学館)より
深草の帝(仁明天皇のこと)のころにいた良少将、これが遍照のことです。この良少将はたいそう時めいていて(つまりノリにのっていて)、とても色好みだった、と書かれています。
この良岑宗貞時代の遍照は帝の寵臣であり、いつもそばで仕えていたというのですが、仁明天皇が崩御すると突然出家。妻数人を残して僧侶になってしまうのです。
ちなみに上で引用した『大和物語』の「苔の衣」の段、結構長い章段で、最後にはあの小野小町との歌のやりとりもあります。小町は仁明天皇の更衣だったという説もあり、もともと知らない間柄ではなかったのだと思われます。
源融
源融(みなもとのとおる)は嵯峨天皇の皇子で、これまた光源氏のモデルのひとりとされる人物です。
源融は六条に河原院(かわらのいん)という豪華な邸宅を建てていますが、これが光源氏の邸・六条院のモデルだといわれています。とにかく風流で豪華な暮らしを好んだ人物で、邸宅にちなんで河原左大臣と呼ばれました。宇治にあった源融の別荘はのちの平等院です。
広い屋敷で豪奢な暮らしを送っていたこと、かなりの美男子だったこと、臣籍降下して源氏になったことなどにより、光源氏の実在のモデルと目されているのです。
平貞文
平貞文(たいらのさだふん/さだふみ)は、通称「平中(へいちゅう/へいじゅう)」。中古三十六歌仙のひとりで、『古今和歌集』の撰者の紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑らと交流もありました。
歌物語に『平中物語』という作品がありますが、これは貞文を主人公とした物語で、業平と並び称される色好みの美男子として伝わっています。
この貞文もまた父親と一緒に平の姓を賜って臣籍降下したやんごとないおぼっちゃんで、そういう点でも業平に似ているのですが、業平のように生粋の美男子・貴公子となりきれないところもあるようで……。
『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』には、貞文の片思いのエピソードとしてこんな話があります。
貞文はある女性に恋をしていたのですが、どうも結ばれる見込みはなさそう。切なくて辛い……。「そうだ!彼女のうんこを見れば100年の恋だって冷めるに違いない(超訳)!」と思い立ち、貞文は女のおまるを盗み出します。しかし女のほうが何枚も上手で、おまるの中身を練香にすり替えていたのです。きっぱり恋を断ち切るつもりが、こんな行き届いた心配りができる才女だったなんて。貞文は恋を忘れるどころか募るばかりでしたが、結局想いを遂げることはありませんでした、という話。
どうでしょうか。かなり残念なイケメンですよね。でも、美男子なのにそういうところがある平中だから魅力的なのかも。
中期
藤原義孝
藤原義孝は21歳の若さでこの世を去った薄幸の美青年。
こちらの記事でも紹介していますが、すごい美男子だったようです。父・伊尹ともども亡くなるのが早すぎて、権力は従兄弟の道隆の家へ移ってしまいました。
信心深い早世の貴公子。美男子だったことは本当のようですが、早すぎた死によって義孝の人物像はより美しく飾り立てられたのかもしれません。
ちなみに、義孝の息子の行成に関しては、これといって美男だったという記録はありません。
藤原道隆
どちらかというと酒豪のエピソードが有名なので、豪快な人物だったのだろうと想像できますが、美男子でもあったそう。従兄弟の義孝にしろ、この藤原北家九条流の家系は美形ぞろいだったのでしょうか?
『大鏡』には、
御かたちぞいと清らにおはしましし。
『大鏡』「内大臣道隆」(校注・訳:橘健二・加藤静子『新編日本古典文学全集』/小学館)より
道隆は容貌が大変美しくていらっしゃった、とあります。古語の「清ら」は最高の美を意味する言葉ですから、それはもう美しかったのでしょう。ただ、藤原冬嗣から続く藤原北家を称える書物なので、藤原びいきはあったでしょうね……。
藤原道頼
藤原道頼は道隆の長子です。父が美男なら子も美男。同じく『大鏡』で、
御かたちいと清げに、あまりあたらしきさまして、ものより抜け出でたるやうにぞおはせし。御心ばへこそ、異御はらからにも似たまはず、いとよく、また、ざえをかしくもおはせしか。
『大鏡』「内大臣道隆」(校注・訳:橘健二・加藤静子『新編日本古典文学全集』/小学館)より
と書かれています。「清げ」は「清ら」には劣りますが、美しいということ。とてもきれいでもったいないように見え、まるで絵から抜け出てきたような人だった、気立ても腹違いの兄弟に似ず(道頼は長男でありながら、正妻とされる高階貴子の子ではなかったため厚遇はされなかった)、愛嬌がある方だったとあります。
ちなみに、高階貴子(高内侍)腹の弟・伊周も、太ってはいたけど美男子だったようですよ。
藤原実方
藤原実方は、光源氏のモデルのひとりとされています。中古三十六歌仙のひとりで、「小倉百人一首」にも歌がとられていますね。
藤原公任と親しく、清少納言とは恋人だったかも、といわれています。数十人もの女性と浮名を流したらしく、かなりの色好みだったよう。
美男でモテたのだろうと思われますが、風流なこと、和歌が得意なことから女性に人気があったのだと考えられます。
藤原重家
藤原重家は藤原公任ら四納言と同時期に活躍した人物ですが、あまり出世はしませんでした。どうやらあの四人のすごさを目の当たりにし、自分の才能のなさを思い知って親友の源成信とともに早々に出家してしまったようなのです。
容貌については『分脈』に「本朝美人、光少将ト号ス」とあり、光少将と称されたとは、かなりの美男だったと思われます。
重家の同腹の妹・元子(げんし)は一条天皇の女御のひとりでした。
源成信
源成信(みなもとのなりのぶ)は重家の親友。一緒に出家した間柄ですね。
重家が光少将なら成信は照る中将。中宮定子サロンにもよく顔を出しており、清少納言とも交流があったよう。『枕草子』にも登場します。女房とのやりとりでは、ひとりひとりの女性の声を聞き分ける才能を持っていたようで、かなりもてはやされたのだとか。顔がよくて性格もいい。後宮にもよく出入りしていたので、宮仕えの女房たちにはさぞかしちやほやされたでしょうね。
見目麗しい二人が突然出家遁世したとあって、都は大騒ぎになったようです。重家は右大臣・藤原顕光(ふじわらのあきみつ)の子、成信は道長の猶子。どちらも将来をはかなむような身分ではないにも関わらず俗世から逃れてしまったのです。見た目もやることも、物語の貴公子のような二人でした。
後期
平維盛
後期は平家から二人。平家の公達は武家でありながらとても優美だったと言われており、この家系もまた美形ぞろいだったのかもしれません。
まずは清盛の直系の孫にあたる平維盛です。維盛は清盛の嫡男・重盛の嫡男で、とても美しかったそう。
維盛(これもり)は源平合戦で命を落とします。弟・資盛(すけもり)の恋人で交流もあった建礼門院右京大夫はその死を知った際、『建礼門院右京大夫集』にこのように書き残しています。
際ことにありがたかりし容貌用意、まことに昔今見る中に、例もなかりしぞかし。されば、折々には、めでぬ人やはありし。法住寺殿の御賀に、青海波を舞ひての折などは、「光源氏の例も思ひ出でらるる」などこそ、人々言ひしか 。「花のにほひもげにけおされぬべく」など、聞こえぞかし。
『建礼門院右京大夫集』(校注・訳:久保田淳『新編日本古典文学全集』/小学館)より
訳すと、
維盛の容貌は際立って類まれな美しさで、それはもう、昔今を通じて他に例もないほどでした。この方について、何かの機会に称賛しない人はいたでしょうか。後白河法皇の五十の賀で青海波を舞ったときなんて、「光源氏の例を思い出される」と皆口々に言ったものです。「花の美しさでさえ彼の前では圧倒されてしまいそうだ」と噂されるほどでしたよ。
維盛の死をどれだけ残念に思ったか、彼の美しさ、すばらしさを称賛する言葉からよくわかります。とにかく、本当に美しかったのだと文章の端々から伝わってきますね。
平敦盛
平敦盛(たいらのあつもり)は清盛の甥にあたる人物。源平合戦の、一ノ谷の戦いで命を落とします。このときの出来事はあまりにも有名ですね。
『平家物語』の「敦盛最期」の段に、一ノ谷の戦いで敗れた敦盛が、源氏方の熊谷直実に追い詰められたときのエピソードがあります。
敦盛は海へ逃れようとしていましたが、直実は「大将軍が敵に背中を見せるとは卑怯な!戻りなさい」と言って敦盛を捕らえます。このとき敦盛はまだ満年齢15歳程度の少年でした。仰向けにして捕まえた敦盛を見た直実は、
年十六七ばかりなるが、薄化粧して、かね黒なり。我子の小次郎がよはひ程にて、容顔まことに美麗なりければ、いづくに刀を立つべしともおぼえず。
『平家物語』「敦盛最期」(校注・訳:市古貞次『新編日本古典文学全集』/小学館)より
まだ若く、薄化粧でお歯黒をしている敦盛は、自分の子と同じ年頃。容貌がほんとうに美しくて、どこに刀を立てていいかもわからない。
直実は間近で見て急に、討ち取るのが嫌になったのです。それほど美しく、自分の子と変わらない少年を討たなければならないことに抵抗感があった。できることならお助けしたい。そう思う直実でしたが、状況的に敦盛を逃がす隙はなく。敦盛も「さっさと首をとれ」と武者らしく気丈に振る舞い、最期のときを迎えたのでした。
平家一門の公達の中では、おそらく維盛に次いで美しかったであろう敦盛の最期でした。
和歌が得意な貴公子がモテる
全部で十数人の平安美男子を紹介してきましたが、ここから見えてくるのは、歌詠みで知られる人物はモテるということ。例外もある(公任なんかは歌詠みとして知られるけれど美男という話は聞かない)のですが、業平や平中、実方など、色好みで数多の女性を虜にしたプレイボーイは和歌で有名な風流人ですよね。
もちろん、顔も美しかったのでしょうが、歌が巧みで多くの女性を虜にする恋の歌を詠める人物というのは、それだけで何割増しかになるのかも。
中期で取り上げた藤原北家の貴公子たちについては、『大鏡』補正もあると思われます。道長やその家系を称える作品なので、ちょっと誇張して褒めるくらいはあったでしょう。