日本最古の女流日記『蜻蛉日記』は女流文学・物語の先駆けであり兼家の記録でもあった

スポンサーリンク

現存するものの中では最も古い女流日記とされる『蜻蛉日記』。作者は藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)です。道綱母は、道長の父である藤原兼家の妻であり、この日記は主にその兼家との結婚生活を綴ったものとして知られていますね。

内容としては、兼家に対する不満が多いでしょうか。兼家には正妻の時姫がいるのですが(道長生母)、彼女と張り合って競争してみたり、兼家が通うその他の妻妾について書いてみたり……。読み進めていくほどに、あまり幸せとは言い難い結婚生活だったことがわかります。

たくさんの妻を持つ夫への反抗

兼家には正妻の時姫のほかに、いろいろ通う女性がいました。道綱母はそれにもやきもきさせられます。例えば、兼家が近江という女性のもとへ通っていた時なんて、正月から何日も自分のところへやってこず門前を素通りしたと嘆きます。

道綱母の家のものたちは門前を通る兼家の行列を待ち構えるのですが、幾日も素通り。道綱母のプライドはズタズタ。

他にも、町の小路の女が新たな妻妾として浮上した時の有名な話がありますね。門を叩いて「入れてくれ」という兼家を無視したという話です。

菊池容斎『前賢故実』

秋ごろ、兼家が道綱母の家から外出したあと、文箱の中に自分ではない女性に宛てた文があるのを発見します。さっそく恨み言の歌を詠んで贈るも、兼家ははぐらかしてばかり。兼家の訪れが少なくなってきたので不審に思い人にあとをつけさせると、町の小路のどこそこに車が留まったと報告があった。道綱母はやりきれない思いでいっぱいになり、数日後にやってきた兼家を無視してしまうのです。

これは「嫉妬しています」という精いっぱいの反抗です。

なげきつつひとり寝る夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る

『蜻蛉日記』(校注・訳:木村正中・伊牟田経久『新編日本古典文学全集』小学館)より

「(あなたが来ないことに)嘆きながら独り寝する夜が明けるまで、どれほど長く辛く感じるかあなたにはわかりますか。門を開けるわずかな間さえ待てないあなたにはわからないでしょうね」

道綱母はあのまま終わらせるわけにはいかないと思ってこんな歌を贈りました。しかし、兼家はどこ吹く風。

げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸もおそくあくるはわびしかりけり

『蜻蛉日記』(校注・訳:木村正中・伊牟田経久『新編日本古典文学全集』小学館)より

「ほんとは夜明けまで待つことになっても貴女が開けてくれるまで待つつもりだったんだけど、急な使いがやってきてね…」と言い訳した上で、「ほんとうに、言われるとおり冬の夜はなかなか明けず辛いけど、冬の夜でもない真木の戸もなかなか開けてもらえないのは辛いと思い知ったよ」という歌を返しています。

二人とも「夜が明ける」と「戸を開ける」を掛けて詠んだ歌ですが、独りで寝る夜が長くて辛いという道綱母に「ほんと、冬の夜って長いから辛いよね!」なんてすっとぼけ。おまけに「冬の夜、ではないけどなかなか戸を開けてもらえないのも辛いよね」と逆に恨み言で返す始末。

道綱母の嫉妬は激しく、夫に対する仕打ちも結構キツいのですが、それを受け流す兼家は一枚上手。

道綱母はやがて「もうこんな結婚生活嫌だ」と思うようになり、山寺へ籠ろうとしますが、兼家が追ってきて京へ連れ戻します。兼家は道綱母をどうでもいい存在だと思っているわけではない。こういうところも、当時の社会の結婚生活を考える上では大事なポイントです。

スポンサーリンク

女性の人生とははかないもの

このように『蜻蛉日記』は、結婚生活の「つらい」部分が強調されています。「女の人生ってなんて生きづらい」という日記。こういうことを書こうというのは、執筆初期段階で考えていたことと思われます。

『蜻蛉日記』の序文を見てみましょう。

かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経る人ありけり。かたちとても人にも似ず、心魂もあるにもあらで、かうものの要にもあらであるも、ことわりと思ひつつ、ただ臥し起き明かし暮らすままに、世の中に多かる古物語のはしなどを見れば、世に多かるそらごとだにあり、人にもあらぬ身の上まで書き日記して、めづらしきさまにもありなむ、天下の人の品高きやと問はむためしにもせよかし、とおぼゆるも、過ぎにし年月ごろのこともおぼつかなかりければ、さてもありぬべきことなむ多かりける。

『蜻蛉日記』(校注・訳:木村正中・伊牟田経久『新編日本古典文学全集』小学館)より

執筆の動機として、

「世の中にある古い物語なんかを見ると、どれもありきたりでいい加減なものばかり。これでもてはやされるんだから、ちょっと人並みじゃない私の人生でも日記として書いたら(現実なんだから)余計珍しくおもしろく思われることでしょう。この上なく高い身分の人と結婚した女の人生ってどんなものか気になる人がいたら、ひとつの答えにでもしてほしい」

こんなことが書かれています。

要するに、「物語なんてフィクションなんだから嘘っぱち!」「本当の結婚はこう!」という感じです。

『源氏物語』以降の物語作品に多大な影響を与えた

「古物語」を「そらごと」(つくりものの意)だと言ってのけたこと。物語なので誰もがわかっていることですが、物語だって同じ平安の貴族を描いたものです。しかし道綱母はそれを「偽物だしいい加減なことばかり」と評価した。

道綱母が『蜻蛉日記』を書いたことで、それ以降の女流文学作品に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。日記以前に女流文学作品としても先駆け的存在ですが、現存するものの中で最初に「女性の生きづらさ」に目を向けた作品といってもいいからです。

「権勢家の貴公子と結婚したからって幸せになれるわけじゃない」

「女っていうだけで何でこんなに生きるのがつらいの……」

こんなふうに、身をもって体験した女性にしかわからない感情というのは、物語には書かれていませんでした。

それまでの物語作品は作者はわかっていないものの、男性作者だろうといわれています。女性によって物語が書かれるようになるのが『源氏物語』以降(※現存する作品については)。紫式部は『紫式部日記』の中でも女の生きづらさについて書いていますが、『源氏物語』にも現実を生きる女性の生きにくさはかなり反映されています。『源氏物語』以後の物語についても同様のことがいえるでしょう。

スポンサーリンク

夫・兼家の和歌を記録する

もうひとつ、近年『蜻蛉日記』は別の切り口からも見直されています。『蜻蛉日記』には兼家とやりとりした和歌が多数収録されていますが、道綱母が日記を書いた動機のひとつに、主家(兼家)の記録があると考えられているのです。

これは後の女房文学(女流文学)と同じ性質です。女流日記とは単に一個人が感じたことやその日過ごしたことを適当に書いてひっそりと自分が見返すものとして残すのではなく、「誰か」のことを記録する役割を持っていたのです。

日記ではありませんが、例えば清少納言の『枕草子』もそうですよね。あれは清少納言個人が好きなことをあれこれ書いているようで、実は主人・中宮定子とそのサロンの輝かしさを世に伝える役割も持っていました。『紫式部日記』も同じです。最後には紫式部の娘に宛てた「こんな風に生きなさい」というメッセージなんかもあるのですが、この日記は主人・彰子の出産から始まっており、もともとは主家の記録として書かれ始めたことがわかります。

そして『蜻蛉日記』。序文に続く最初の記録は、兼家との結婚話が持ち上がったというもの。結婚生活の辛さを綴った日記でもあり、夫・兼家の和歌を記録する日記でもあったのです。

単なる夫の愚痴日記ではない

こうしてみると、『蜻蛉日記』って、単に陰で旦那の愚痴をこぼす日記ではないのだとよくわかりますよね。

道綱母は平安一の美女といわれるほど美しかったそうですが、そんな人でも結婚生活では辛酸をなめた。それを記録に残すということは、かなり革新的なことだったのではないでしょうか。もちろん、長い年月のなかで埋もれていってわからなくなっただけで、同じような作品が他にもあったのかもしれませんが。

こういう作品が世に出たこと。日本以外に1000年も前の作品で、しかも女性が書いたものが残っているなんてそうそうありませんが、平安二大文学の『源氏物語』と『枕草子』が今に伝わるほどの優れた作品に仕上がった、それはどちらとも『蜻蛉日記』があってこそだというのは間違いないでしょう。

主家の記録としても、『蜻蛉日記』は有益な史料となっています。詠んだ和歌はきちんと管理しなければいずれ消え去ってしまいますが、こうして世に知れ渡る作品として記録したことで失われずに済んだものもあります。また、兼家がどういう人だったのかを知る上でも重要な史料なのです。

【参考文献】

スポンサーリンク