【枕草子】涙を流した犬・翁丸(おきなまろ)。宮中で飼っていた犬が一条天皇に追い出され……

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宇多天皇が大変な猫好きで、あふれる猫愛を日記にして記録したというエピソードは有名ですよね。ペットといえば、古くから人間のパートナーであった犬はもちろん、日本では奈良時代ごろから猫も可愛がられるようになりました。とはいえ、江戸時代ごろになるまで、猫は高貴な人しか買うことのできないペットだったのです。

今回登場する猫・命婦のおとどは、一条天皇がとても可愛がったといわれる猫です。そしてペットはもう一匹。宮中で飼われており、定子も可愛がっていた犬の翁丸(おきなまろ)です。紹介するのは、夫婦それぞれのペットにかかわるエピソードです。

ペット担当者の女房のちょっとした冗談が原因でとある事件が起こってしまうのですが、最後は一応ハッピーエンドなのでご安心を。

一条天皇の愛猫・命婦のおとど

この2匹のペットが登場するのは、枕草子「上に候ふ御猫は……」の段。事件が起こったのは長保2(1000)年3月のこと。

一条天皇は「命婦のおとど」と名付けた猫を飼っており、五位をさずけて可愛がっていました。この命婦のおとどには馬命婦(うまのみょうぶ)という女房をつけ、養育係としていたのですが……

翁丸を命婦のおとどにけしかけて一条天皇は仰天

あるとき、馬命婦は日なたで眠っている命婦のおとどを見て、ちょっとおどかすように犬の翁丸をけしかけました。

 

「翁まろ、いづら。命婦のおとど食へ」

『枕草子』「上に候ふ御猫は……」の段(校注・訳:松尾聰・永井和子『新編日本古典文学全集』/小学館)より

「翁丸、さあ命婦のおとどにかみついてしまいなさい」

もちろん、馬命婦は翁丸に本当に食わせようとしたわけではありません。しかし、命じられた翁丸のほうは本気にしたのか、命婦のおとどのほうへ走っていったのです。驚いた猫は怖がって御簾の中に隠れてしまいました。

普通ならちょっとした冗談として済む話ですが、問題だったのはこの出来事を一条天皇が目にしていたということです。

驚いた一条天皇は命婦のおとどを自分の懐に入れ、殿上の男たちを呼んで翁丸を始末するように命じたのです。

「この翁まろを打ちてうじて、犬島へつかはせ、ただいま」

『枕草子』「上に候ふ御猫は……」の段(校注・訳:松尾聰・永井和子『新編日本古典文学全集』/小学館)より

殺してしまえとまでは言いませんでしたが、こらしめて犬島へ送れ、と命じます。犬島とは野犬を収容する場所でした。

結果、帝の怒りで翁丸は追放され、けしかけた馬命婦は猫養育係のお役御免です……。

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ボロボロになって帰ってきた翁丸

定子サロンでも可愛がられていた翁丸

翁丸は誰が飼っていた、というペットではなかったようですが、定子サロンでも可愛がられていました。

清少納言は翁丸が追放されたことを知り、ふだんの翁丸の姿を思い浮かべながら残念がります。宮中を得意げに歩き回り、桃の節句に頭の弁(藤原行成)が頭に桃の花をつけたり桜を腰に差してやったりして飾り立ててかわいがったときには、翁丸もこんなことになるとは思わなかっただろうに、と。

また、皇后定子の食事の時間には必ず庭先で待っていて、あまりものをもらおうと待ち構えていたのです。

それが突然いなくなったので、定子サロンでは「翁丸がいなくなってさびしい」と噂していました。

戻ってきた犬は蔵人に打たれ……

それから3、4日経ったころ、また宮中で犬が打たれる出来事がありました。蔵人が二人で犬を打ち、御門の外に捨てられてしまいます。悲痛な犬の鳴き声を聞いた女房が止めに行きましたが、すでに遅く犬は死んでしまったと伝えられました。

ところがその夕方、腫れあがってボロボロになった犬がぶるぶると震えながら歩き回る姿が目撃されます。それを見たとある女房が「翁丸」と声をかけますが、見向きもしません。

「あれはやっぱり翁丸だ」という声もあれば、「いや、ちがう」という女房も。定子は翁丸をよく知っている右近という一条天皇付きの女房に調べさせますが、「似てはいるけど、この犬は見るからにみすぼらしくて翁丸ではないようです。それに、翁丸ならば名前を呼べば飛んでくるのに、この犬は寄ってきません。二人がかりで打ったのなら生きてはいないでしょう」と報告。定子は不憫に思いました。

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同情の声に涙を流した翁丸

食べ物を与えても食べようとしない犬の様子から、清少納言らは「これは翁丸ではない」と結論づけました。

それでも定子のすぐ近くの庭先でうずくまる犬を見て、清少納言は同情の声をもらします。

「あはれ昨日翁まろをいみじうも打ちしかな。死にけむこそあはれなれ。何の身に、このたびはなりぬらむ。いかにわびしき心地しけむ」

『枕草子』「上に候ふ御猫は……」の段(校注・訳:松尾聰・永井和子『新編日本古典文学全集』/小学館)より

「昨日翁丸をひどく打ったことよ。きっと死んでしまっただろうけど、本当にかわいそうなことよ。今度は何に生まれ変わるのだろうか。どれほど辛い思いをしたろう」。清少納言は翁丸を思わせる犬を見て思わず口に出しました。

すると、その言葉を聞いてか、犬が反応したのです。

この居たる犬のふるひわななきて、涙をただ落しに落すに、いとあさましきは、翁まろにこそはありけれ。「昨夜は隠れしのびてあるなりけり」と、あはれにそへて、をかしきこと限りなし。御鏡うち置きて、「さは、翁まろか」と言ふに、ひれ伏して、いみじう鳴く。

『枕草子』「上に候ふ御猫は……」の段(校注・訳:松尾聰・永井和子『新編日本古典文学全集』/小学館)より

清少納言の言葉に反応するように、犬はぶるぶる震えながら涙をボロボロとこぼしたのです。これでようやく気付きました。この犬は翁丸だったのです。人間にひどく辛い思いをさせられた翁丸は、おそろしくて昨日は違う犬のふりをしたのでしょう。そこまで考えた犬をあわれに思う一方で、おもしろくも感じました。

清少納言は鏡を置いて「翁丸なの?」と尋ねると、今度は返事をするように鳴いたのです。

犬にも心がある

定子にも伝えられ、一同は笑って大騒ぎ。とうとう追い出した張本人である一条天皇にまで伝わりますが、泣いたという話を聞くと、「なんと、あきれたことに犬にもこれほどの心があるのだね」と笑います。

清少納言が「ひどく腫れているから手当をさせたい」というと、ある女房は「とうとう翁丸びいきだと白状したわね」と笑います。

戻ってきた翁丸は許され、もとの暮らしに戻りました。

清少納言が翁丸びいき、さらには犬好きであったのか。この点は不明ですが、犬にも人間のような感情があることは随分印象深く残ったようです。

なほあはれがられて、ふるひ鳴き出でたりしこそ、世に知らず、をかしくあはれなりしか。人など人に言はれて、泣きなどはすれ。

『枕草子』「上に候ふ御猫は……」の段(校注・訳:松尾聰・永井和子『新編日本古典文学全集』/小学館)より

震え鳴きながら出てきたときはいじらしく、この上なく心動かされるような感動だった。人間なら何か言われて感動し泣くこともあるだろうが、犬なのに……。

世の中の流れの裏側の微笑ましい出来事

この事件が起こった長保2年の末、定子は死去します。同年2月中には道長の娘・彰子の入内があり、定子は皇后になったばかりの出来事でした。時勢は変わり、ますます道長が力をつけていく中で、一条天皇と定子の仲睦まじさも感じられるエピソードのひとつです。

【参考文献】

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