平安時代の女性ファッションについては以前「十二単」について紹介しました。
今回紹介するのは男性のファッションです。
男性貴族の装束にはいくつか種類があり、簡単に分類すると、束帯・衣冠・直衣・狩衣の4種類があります。
以前、男性貴族にとって冠は大切なものだったのだと紹介しましたが、
ここで紹介している内容を見てもわかるかと思いますが、上記4種類のスタイルは公的・私的の2つに大別することができます。簡単に見分けるポイントは、冠か烏帽子かというところ。冠の場合は公的な場でのファッション、烏帽子の場合は私的な場でのファッションと見分けることができます。
女性の装束ほど衣を重ねることはありませんが、男性の装束も意外と着こなすのは大変!
束帯
束帯は、宮中に出仕する際に着用する装束です。平安より以前の「朝服(ちょうふく)」が変化したものといわれています。中国王朝に倣っていた飛鳥・奈良のころに比べると中国っぽさは薄れていますが、ところどころに名残はありますね。
太刀は模造刀
文官・(三位以上の)武官ともに束帯姿の際に帯刀を許される人もいます。ただ、この太刀は儀礼用なので、実際に抜いて斬ることはできません。
四位以下の武官は太刀・弓を持っていますが、こちらはもちろん実際に使えるものを差しています。武官束帯は文官束帯と基本は同じですが、動きやすさが重視されています。上のイラストでは省略されていてわかりにくいですが、脇は縫われていません(闕腋袍/けってきのほう)。
下襲の裾は引きずって歩く
後ろにのびている布は下襲(したがさね)の裾といって、引きずって歩きます。例えば『伴大納言絵詞』を見てみると、その長さがわかると思います。
この下襲の裾は身分が高いほど長くなり、それを示すようにズリズリ引きずって歩くのです。
袍の色も位によって分けられる
上衣の袍(ほう)は縫腋(ほうえき)の袍で、色は身分によって使用できるものが定められています。例えば、白や黄櫨染(こうろぜん/はじぞめ)は天皇にしか許されない禁色(きんじき)です。黄櫨染については今上天皇(平成)も即位の際にこの色の束帯を着用されていますが、いまだに天皇にしか許されていない色です。皇太子にしか許されない黄丹(おうだん)という色もあります。
イラストの束帯は黒ですが、本来は紫でした。この黒色の束帯は貴族の中でも三位まで(公卿)、親王などの皇族でも五位までしか許されていません。
四位以下の貴族、一般的な中流貴族は赤です。深緋、浅緋の束帯を着用しました。六位以下の下級貴族になると、深緑、朝緑、深縹となり、無位の場合は黄色でした。
なお、この位による色の決まりは同じ平安時代でも時期によって異なります。
襪(靴下)を履く
束帯では襪(しとうず)という靴下を着用します。他の装束の場合は基本裸足なので、ここは大きな違いですね。足袋とは違って足先が二股に分かれておらず、足首を紐で縛って留めます。
衣冠
続いては衣冠(いかん)です。衣冠も束帯の一種で、見た目はとてもよく似ています。束帯は第一礼服、衣冠はその略式といったところでしょうか。
束帯は宮中で昼間に着用する仕事着ですが、衣冠はもともと宿直のためにできた装束といわれています。つまり、夜に着る仕事着。束帯は石帯(せきたい)という革製の帯を締めるのですが、さすがに夜までかっちりとした帯を締めるのは辛い……ということで、ちょっとゆったりとした略式の束帯として衣冠が生まれたのです。
違いは「はこえ」を出すかどうか
パッと見でわかりやすい違いは、「はこえ」という腰の部分をぺろっと出すかどうかです。はこえとはいわゆるお端折りのようなもの。束帯の場合は中に入れ込みますが、衣冠の場合は外に出します。
下は指貫
束帯の場合、下は表袴(うえのはかま)であるのに対し、衣冠は直衣や狩衣と同じく指貫(さしぬき)であるところにも違いがあります。
表袴と違ってゆったりとしており、裾は足よりもだいぶ長いのが特徴。紐で脚にくくりつけてたるませて履きます。
時代が下ると昼も許されるように
もともと宿直用として許された衣冠でしたが、時代が下ると昼の仕事着としての着用も許されるようになります。
イギリス貴族の夜の正装がもともと燕尾服(ホワイト・タイ)だったのが、だんだん略式のタキシード(ブラック・タイ)が許されていったように、時代とともに略式が許されていく、それは平安時代も同じだったようです。
直衣
直衣で参内する場合は冠を着用
私的な装束である直衣・狩衣は冠は冠ではなく烏帽子、と説明しましたが、勅許を得て直衣で宮中に参内する場合は冠を着用します。
上の『源氏物語絵巻』の一場面では、手前の夕霧が桜襲の直衣に冠姿です。
誰でも直衣での参内がOKだったわけではなく、基本的には公卿までしか許されなかったようです。普段着であることに違いはありません。それを着て参内することが許されるということは、天皇と近しい関係にある、つまり相当身分が高いということ。天皇と外戚関係にあるなど、私的に親しい間柄であるという証でもありました。
上流貴族の普段着で色は自由
直衣は主に、上流貴族の普段着として着用されました。家でくつろいだり、宴を開いて遊ぶときなどの服装です。
家で着るものなので、仕事着の束帯・衣冠と違って色に決まりはありません。自由に色柄を選べました。
直衣での参内が許されたエリート貴族たちは、ほかの貴族たちが黒や赤の束帯を着用する中で、上の『源氏物語絵巻』の夕霧のように明るい桜襲の直衣で現れたりしたわけです。かなり目立って輝いていたことでしょう。
狩衣
狩衣はこのような装束で、脇の間から下に着ている単衣が見える服装です。今回紹介した装束の中ではもっともカジュアルなスタイル。
もともとは狩りのための装束
「狩衣」という名前からもわかると思いますが、鷹狩りなどで動きやすいように考案された装束でした。同じ私的なファッションでも、直衣がおしゃれ着なら狩衣はジャージというところでしょうか。
動きやすい工夫はいろいろあり、例えば袖まわりにある紐はギュッと絞ることができます。左右の紐の端をくくり、それを首の後ろへかけることでたすき掛けのようになり、作業するときに袖が邪魔にならない。大河ドラマ『平清盛』でもそういう描写がありました。
また、走る必要があるときなどは指貫の紐をひざ下あたりでくくりました。蹴鞠をするときなど、動きやすいように上のほうでくくったのです。
中流貴族から上流貴族へ
もともとは中流貴族の普段着でした。リッチなエリート貴族は直衣を着るのが普通。それが時代が下っていくにつれて上流貴族にも広がっていったようです。
こちらは『源氏物語』の橋姫巻を描いた部分ですが、外から覗いている薫は直衣姿。しかし『源氏物語』本文では狩衣姿だと書かれており、この絵巻も最初は狩衣で描かれていたようですよ。
身分の高い貴族が夜遊びする際、狩衣姿になって身分を隠して女性のもとへ通うこともありました。つまり、「私は中流貴族ですよ」というふりをしていたということ。「身をやつす」という言葉がありますが、超エリートともなるとちょっとばかり身分の低い男の格好をして出歩くこともあったのです。
だからもともと狩衣は「上流貴族は着ないもの」と考えられていたと思いますが、やがて上流貴族たちも狩衣を着るようになっていきました。
院政期以降は院御所での着用も
平安も末期、院政期になると、院も狩衣を着用していたこともあり、出入りする貴族らにも狩衣が許されていたとか。
時代が下るにつれてどんどん略装が許されていく。これは後の時代にもつながることですが、400年近くある平安時代の中でもゆるやかに変化していったことがわかります。