悪筆だけど味がある藤原定家の字……Adobeの定家フォント「かづらき」も注目!

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「小倉百人一首」で知られる藤原定家。藤原北家御子左流・俊成の子であり、平安末期から鎌倉時代を代表する歌人として知られています。勅撰集『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の撰者であり、『近代秀歌』などの歌論書をいくつも著しています。まさに中世では随一の歌人であったわけです。

今回は、そんな藤原定家の書に注目してみましょう。

定家様(ていかよう)と呼ばれる筆跡

定家の書は、父の俊成と同じ法性寺流(ほっしょうじりゅう)という流派。藤原忠通を祖とし、もともとは小野道風藤原行成といった和様の大家の書風を学び、それに手を加えたものでした。俊成の書は道風や行成と比較するとやわらかさに欠けてすこし角のある字ですが、それでも風雅な文字です。

では定家の書はどうだったかというと、後世に「悪筆」と評されるほどの文字でした。

藤原定家 文字 悪筆 フォント

定家自筆本『近代秀歌』

こちらが定家自筆の書です。古文書を見慣れない人が見ても、「わあ上手!」「美しい!」とはいえない筆跡ではないでしょうか。読めないくらい下手だというわけではありませんが、かなり癖の強い文字ですよね。

定家の書はこれだけの癖があるため、パッと見ただけでも「定家だ!」とわかるくらいです。一字一字が横に長く、何よりあまり連綿で文字をつながないことが特徴的です。

父親の俊成の筆跡はこちら。

俊成 筆跡

御家切 『古今集』

かなり違いますね。あまり癖がなく流れるような繊細な筆遣いです。

ちなみに、定家の息子・為家の筆跡も紹介しましょう。

四半切『斎宮女御集』

為家の書体はどちらかというと俊成に似ている感じがありますね。定家とは違い、細く繊細な筆。太い筆跡のものもありますが、文字が縦長で、正方形に近い定家とはやはり似ていません。

悪筆といわれる定家の筆跡は、室町の茶人や江戸時代の社会では「定家様(ていかよう)」「定家流」と呼ばれて大流行します。定家の書風をまね、悪筆を少々誇張したような流派。悪筆ですがなかなか味があり、ほかにはない魅力がありますよね。そこが人気の理由だったのでしょうか。

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紀貫之の『土左日記』を臨書したけれど……

定家は紀貫之の『土左日記』を書写したことでも知られています。貫之の自筆本は現存していないので、その筆跡を臨書したものとして貴重な本。といいつつ、本文自体は有名な「をとこもすなる日記」の箇所を「をとこもすといふ日記」に仮名遣いを変えるなどの改変が見られるのですが……。

こちらがその自筆書写本。定家は、1235年、最後の2頁だけを貫之自筆本から臨書(手本を見ながらそっくりまねて書く)しています。

老病中、 雖眼如盲、不慮之外、見紀氏自筆. 聊有關字。

「定家本土佐日記」奥付より

定家は興奮気味に奥付(あとがきのようなもの)で思いがけず貫之の自筆本『土左日記』を見る機会があったから書写した旨を記していますが、年を取って眼があまり見えないとも言っています。このときの定家は70歳を過ぎた老人。目が見えないのも無理はありません。

実は定家の筆跡で有名なものは、年を取ってからのものが多いのです。もしかすると、定家の悪筆は目が見えないことによるところも大きいのかもしれませんね。

ちなみに、定家はこの通り一部臨書をしたとはいっても仮名遣いに改変が見られ、テキストとしては原本に忠実であるとは言えません。定家の息子の為家も貫之自筆本を書写しており、こちらは臨書とはいわないまでも、貫之本の字体を正確に書き写しているとされています。『土左日記』の写本群の中では評価が高い写本です。

味がある筆跡はフォントになってる!

さて、ここまで紹介してきた定家の書体、便利に使えるフォントになっているのをご存知でしょうか?

2010年に、AdobeからOpenType書体「かづらきフォント」として発売されたものです。

それがこんな感じ。デザイナーは西塚涼子さんです。定家の字!という感じがしますよね。

基本的には仮名が中心のフォントのため、漢字によっては使えないものもあります。なかなか魅力的なフォントなので、和風のリーフレットやおしながきのデザインなどにおすすめです。

Adobeストアで5000円で販売されているので、気になった方は調べてみてください。

定家の書体は冷泉家時雨亭叢書でも研究が進んでいる

定家はさまざまな書物を書写して家に残しています。現存しているものは、定家の息子・為家の子の為相を始祖とする冷泉家の冷泉家時雨亭文庫に多数保管されており、「時雨亭叢書」として貴重な書物の影印本が出版されています。

古筆(平安から鎌倉までの名筆)の研究も進んでおり、実は定家筆とされるものの中には彼の娘などが書いたものもあると考えられています。

和歌の家として膨大な書物を管理し書写していた定家。そのすべては到底ひとりで書写できる量ではないので、いろんな人物が関わっていたのです。

定家様も、加齢によって目が見えにくくなり悪筆になった、というのもあるでしょうが、連綿でつながない一字一字がはっきりした文字は、写本を写す上で合理的な書き方だったのかもしれません。

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