平安中期、一条朝を支えた一人である藤原公任(ふじわらのきんとう)。『枕草子』や『紫式部日記』にも登場する人物であり、高校の古文の教科書でもおなじみの人物です。
漢詩・和歌など多才な人物であったと現在にも伝わっていますが、最もそれがよくわかるのが『大鏡』に登場するエピソード「三船の才」でしょう。
公任がどのような人物であったか概要を紹介しながら、この有名なエピソードについて解説します。
藤原公任とは
文化面
藤原公任(996(康保3)~1041(長久2)年1月1日)は、平安時代中期に活躍した歌人として知られています。中古三十六歌仙の一人でもあり、藤原定家が撰んだ「小倉百人一首」にも和歌が採られています。
歌学者としても名高い公任は『拾遺抄』という私家集(私的な歌集)を編んでいますが、これは勅撰和歌集の『拾遺和歌集』に大きな影響を与えました。勅撰集は基本的に複数の撰者がおり、天皇の勅命を受けて編纂にあたりますが、『拾遺集』においては公任が編んだ『拾遺抄』を基準に編纂されています。
ほか『金玉集』『和漢朗詠集』など多数の書物を編集したことでも知られていますが、これだけでも和歌の世界ではとびぬけた才能の持ち主であったことがわかるでしょう。
政治家として
公任は関白太政大臣頼忠の子で、姉の遵子(じゅんし)は円融帝の中宮でした。うまくいけば公任もそのまま貴族のトップに君臨できる家柄でしたが、公任が幼いころに家は傾いていきます。幼いころは道長のライバルともされていましたが、元服のころにはかなり立場に差が生まれていました。その後は藤原道隆・道長兄弟の家系が摂関家となり権力を独占する時代に移り、公任の最終的な位は正二位権大納言にとどまりました。
しかし官僚としての才能もあった公任は、藤原斉信(ふじわらのただのぶ)、藤原行成(ふじわらのゆきなり)、源俊賢(みなもとのとしかた)の3人とともに「四納言(しなごん)」と呼ばれ、一条朝を支える公卿として活躍しました。
大鏡「三船の才」
「三船の才」とは歴史物語の『大鏡』「太政大臣頼忠 康義公」の項にあるエピソードの一つです。道長が大堰川で船遊びを催した際、「漢詩の船」「音楽の船」「和歌の船」の三つに分け、それぞれの道に優れている人を乗船させました。
この時、道長は公任が来ているのを知り、
「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき」
『大鏡』「天」(校注・訳:橘健二・加藤静子『新編日本古典文学全集』/小学館)より
と、「あの大納言(公任のこと)はどの船にお乗りになるのだろう」と気になる様子。
これに公任は「和歌の船に乗りましょう」と言い、船で歌を詠みました。
小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦きぬ人ぞなき
『大鏡』「天」(校注・訳:橘健二・加藤静子『新編日本古典文学全集』/小学館)より
内容は、「小倉山から吹きおろす風が冷たいので、紅葉が散りかかって皆が錦の衣を着ているようだ」というもの。色鮮やかな風景を詠んだ優れた和歌です。
公任は歌に満足したのか、
「作文のにぞ乗るべかりける。さてはかばかりの詩をつくりたらましかば、名のあがらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の『いづれにかと思ふ』とのたまはせしになむ、我ながら心おごりせられし」
『大鏡』「天」(校注・訳:橘健二・加藤静子『新編日本古典文学全集』/小学館)より
と、「漢詩の船に乗ればよかった。この和歌くらいの詩を作ったらもっと名声が上がっただろうに!」といい、道長が「度の船に乗るのか」と言った時には得意になった、と鼻高々だったようです。
なぜ「漢詩の船に乗ればよかった」と言ったの?
最後に公任は「漢詩の船に乗ればよかった~!惜しいことをした」と残念がっていますが、何故かというと当時の和歌と漢詩の地位に答えがあります。
平安時代中期には和歌はかなりの地位を築いていました。平安初期は遣唐使を派遣して唐風の文化を盛んに取り入れ、和歌は私的なお遊びといった感じでしたが、遣唐使の廃止、『古今集』の編纂など時代は国風文化に移り変わっていきます。
しかしそんな中でも、男の学問といったら一番は漢詩だったのです。和歌は仮名で女性もたしなむものですが、漢詩は男だけが学ぶものとされていました。一部、紫式部や清少納言のように漢詩の知識を持つ聡明な女性もいましたが、一般的には女性が学ぶものではなかったのです。
そういうわけで、随一の学問である「漢詩で才能を認められたら誉れ高いのに」という意味で公任は残念がったと考えられます。
いずれにせよ、一芸に秀でているだけでも素晴らしいものを、多才な公任はそれだけで並外れて素晴らしいといえますね。